We can help you to accelerate your business

Expandmenu Shrunk


イスラム教への偏見

911以降 メディアは一斉にイスラム教・イスラム教徒をあたかも過激集団のようにイメージさせるような、偏ったイメージを促す契機になった。砂漠民の衣装でヒゲを生やして機関銃を担いでいる悪い奴らのような印象の映像を流し、悪いイメージを植え付け続けた。日本の公安までもが、イスラム教信者であるということだけで一般市民をマークしたり、情報収集をしていたという。オウム真理教の事件依頼、宗教とテロを結び付け、良からぬことをきっとしでかす集団と認識しているようだ。

多くの日本人は宗教というものを理解できない。国民性といっても差し支えないだろう。神社や寺は身近にあるが、神を信じる気持ちは、おみくじが適当に当たるぐらいの感覚で、祭りや行事に欠かせないシンボルのような存在でしかない。西洋の風習など、なんでも取り入れるのは得意で、宗教や神様を軽んじる発言であふれている。

ユダヤ教、キリスト教、仏教、イスラム教それぞれ信者は生活の一部というより、現実世界はに宗教世界に存在していることを意識している。信じる神のために自分の命も投げ出さえるくらいの大切な存在ということもあるようだ。学問であり、法律であり、マナーであったり、人生を追求する道でもある。

例えばイスラム教の教えは神の下に全ての人は平等に上下関係は全くない。そして共同体意識を特徴として、互いに助けあおうという教えの上に成り立っているように感じる。一斉にモスクに集まり、集団でお祈りをする光景に圧倒されることだろう。儀式的な振る舞いや熱心なお祈りは見慣れぬ人にはどうのように映るものか?

もし誤った見方のまま、特定の宗教や宗教団体などを偏見し続けるとしたら、全世界を敵に回すことになることだろう。

日本はTV教信者で溢れてるとも言える。メディアを信じ疑わず、影響を受け、自分で考えたり、判断することができない信者で溢れている。ある意味まじめで手をかけずにコントロールしやすい国民は、きんたろう飴状態。インターネットでさらに調べたり考える力を無くし、面と向かって人と関わることを嫌いながら、ネット向こうの友達にはいつも気を使っている。操り人形そのものになってしまった。夢が買えて、困った時には助けてくれるお金が全能のように感じ、それを神様の如く信じ切っている。お金よりも大切なものは無いというような考え方だ。おかげで多少の誤差があるが、一般的日本人が日本人社会で生活するのは快適な状態になっていると思う。悲しいことにアイデンティティーが無いのが特徴だ。

その人に取って大切なものが信仰であると考える頭もない。ある意味神様を意識した時に、自分は神様にどのように写って、向き合うか?考え行動すると思う。自分の生を見つめて生きることになる。また回りの人・社会にどのように接し、共に生きるか導かれることだろう。

相手の思想や宗教を知ろうとすることはいいことだと思うし、その上で語ることは許されるが、知りもしないで偏見や差別を行うのは、もっての他だ。本当に恥ずかしい。

私自信は、無宗教の日本人そのものであるが、メディアに感化されながらも、自分を問いながら生きているつもりだ。

この国で私は○○教の信者ですと、大きな声で話せる時代が来ることを願いたい。


コメントは受け付けていません